2010年03月02日

立山カルデラ

鳶山と立山カルデラ 立山カルデラ 鳶山跡 白岩砂防ダムと土砂立山カルデラ(たてやまかるでら)は、富山県南東部の立山とは別にその近くにある立山火山の一部である。2007年に、富山県では魚津埋没林と共に、日本の地質百選に選定された。地理カルデラの広さは、東西およそ6.5 km, 南北およそ5.0 km. 立山火山の崩壊・侵食によってできた。以前、立山カルデラは弥陀ヶ原に広く厚く分布する火砕流が噴出したことにより、火山山頂部周辺が陥没して生成した「陥没カルデラ」であると考えられていたが、現在では「侵食カルデラ」であると考えられている。そのため、地質調査所主任研究官の中野俊など、カルデラとは呼びたくないと言明する研究者もいる。歴史約22万年前に立山西斜面の火山活動が始まる。その後、立山カルデラが生成し、侵食が進むにつれ弥陀ヶ原と五色ヶ原を分割する格好となった。1858年4月9日に発生した飛越地震によって、日本三大山岳崩壊と称される鳶山崩れが併発した。これにより、かつての大鳶山と小鳶山は完全に崩壊し、立山カルデラに大量の土砂が流れ込んだ。カルデラ内では立山温泉の温泉客と従業員が土石流により死亡。カルデラ外へはせき止められた常願寺川が、4月23日(旧暦3月10日)、6月8日(同4月26日)の2度にわたり決壊、3万石以上に相当する田地が土砂に埋まり、死者・流失家屋も多数。下流の平野部に大きな被害をもたらした。また、カルデラ内の登山ルートがなくなった。その後も度重なる災害が発生し、最近では昭和44年の豪雨により一部の箇所が大規模に崩落。後にカルデラ内の立山温泉がルート寸断により廃止に追い込まれた経緯がある。砂防工事飛越地震の後、土砂流出災害が度重なったため、富山県は1906年(明治39年)、国庫補助を受けて白岩砂防ダムより上流の砂防工事に着手した。しかし、この白岩砂防ダムも、1919年(大正8年)、1922年(大正11年)と続けて破壊されてしまった。そのため、富山県だけで本事業を行うのが困難となり、1926年(大正15年)、国直轄の事業に変更となった。その後、1931年(昭和6年)に千寿ヶ原?白岩間の砂防工事用トロッコ軌道(国土交通省立山砂防工事専用軌道)が開通し、資材輸送ルートが完成。1937年(昭和12年)には日本一の貯砂量をもつ本宮砂防ダム(国の登録有形文化財指定)が完成。1

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posted by ナリタ フミアキ at 03:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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